昭和20年8月9日、私は現在の中国黒竜江省の牡丹江市にいた。 5歳を過ぎの頃であった。私はいつもの通り茶の間に寝転んで唱歌を歌っていたその時、耳を劈くような、大砲の音が聞こえた。母と共に一目散に防空壕に飛び込んだ。 ソ連が参戦したのだ。爆撃は数十分続いた。私は壕の中で怯えたが、そのまま眠りについていた。夜になって無性に腹が減って目が覚めた。母はそばにいなかった。 そのうちざわざわと人の叫ぶ声、ものをたたき壊す音が聞こえてきた。満人による略奪が始まったのだ。 突然母が私の元に来て、「淳一逃げるのよ」と叫んだ。これが一年ほどの逃避生活の始まりだった。 牡丹江駅は、避難民でごった返していた。乗せろ、乗せない言い合いが始まっていた。どうやら軍用列車と民間列車とがあるらしい。 列車には軟座(グリーン車)と堅座(普通車)があり、軟座の方は将校とその家族、堅車は兵士とその家族と言った具合で、満席であった。 どういう伝手であったのであろうか、父親が満州興業銀行に勤めていた所為か、その従業員80数名は乗ることが出来た。もし、この列車に乗っていなかったとしたら、私の運命はどうなっていたか、幸運だったのか。 後に分かったことだが、軍用列車は関東軍の撤退の列車だったのだ。しかしこの列車は哈爾浜までは行けなかった、燃料の石炭が手に入らなくなったのと、満人運転手が金を渡さなければ仕事をしないのだ、天下の関東軍も完全に馬鹿にされているのだ。 それに哈爾浜では、満人暴徒が、ソ連兵が略奪行為をしているとの情報が流れてきたのだ。女性は髪を切り、顔は煤でよごして、男装をし、哈爾浜までの三十数里の道を歩いた。食べるものは乾パンと水であった。老人は歩けなくなるもが出てきたら容赦なく放置された。4才以下の子供に殺害命令が出た。 その子の母たちは、やむなく中国人に預けるものが多かった。私は5才だと言って難を逃れた。 7日後に哈爾浜についた。だれも疲労と空腹で無表情だった。どこからか中国兵とその通訳がやってきて。まず手荷物は全部没収された。「日本国は無条件降伏をした。いまから諸君を収容する、兵士は全員武器を捨てなさい。抵抗するものは、この場で銃殺する」。 収容されたのは桃山小学校であった。80数名いた満州興業銀行のメンバーも50名程になっていた。でも有り難かった、せめて雨つゆがしのげて、煮炊きしたものが食べられた。 それから、60年私のこの忌まわしい体験を、心の中にしまっていた。私の女房にも、二人の娘にも話さなかった。作年福岡県前原市の知人が、哈爾浜市、牡丹江市に行く話があり、私もメンバーに入れてもらった。 哈爾浜から牡丹江往復を、列車で出かけた。車窓の景色は、一面のトウモロコシ畑と沿線に植えられたポプラの木々が延々と続いているだけで、2・3分で飽きてしまった。あのときに比べるとなんと平和なことか。 牡丹江市駅は当時と打って変わって立派な建物に建て替えられていた。あのときの混乱の面影はない。旧牡丹江市女子高等学校は一部が残っていて、昔の面影はない、今で言う営林署みたいになっていて、昔の面影は無かった。近く高速道路が出来るので壊されるそうだ。 幼少の頃遊んだ旧人民公園は残っているが入場が有料になっていた。旧牡丹江神社はいまもあり、忠霊等が無くなり日抗戦死者の塔が立っていた。 春山公園は昔のままと思われた。明倫小学校は無くなっていた。丁度暖房用の炉の煙突が倒されていた。しかし、それを囲む塀は元のままだった。 牡丹江市の旧銀座通りはあの整然として美しかった町並みは、屋台街のようになっていた。 牡丹江劇場はいまも営業していて、開拓団の宿泊した宿はそのまま残っていた。 そして、あの8月9日の逃避行が始まった社宅はビル街になっていた。 哈爾浜市の町並みは大きな変わりようであったが、 聖ソフィア教堂は昔のままだった。 桃山小学校は兆麟小学校として今も実存し、哈爾浜では優良校になっている。中に入れてもらったが、そこで当時避難民として生活した当時そのままの姿で残っていた。懐かしさが込みあげてきた。 松花江は当時とは変わらないように思えた。観光船による遊覧を行った。ここにかかる1903年に建設された鉄橋は、いまも残っていた。多くの難民を乗せた貨車がここを通っていったのだ。松花江に沿ってスターリン公園があるスターリンは聞いただけでもぞっとする人物だか、直接関係は無いそうだ。 哈爾浜~長春の列車の車窓は、相変わらず、線路沿いのポプラとトウモロコシ畑の連続であったので2・3分で飽きが来た、寝台車だった所為か食堂車があった。ビールの銘柄は「雪花」で、冷えていない。 当時この路線を貨物列車で走ったのだ、いわゆる昔の石炭車で、人がぎゅうぎゅう詰めで走ったものだ。 長春は旧新京と言った、この市の富士町で弟富士男が生まれた。今の長春駅の近くである、そこを一度見ておきたかった。観光バス車窓から眺めただけであったが。 長春はラストエンペラー溥儀で知られる。日本は旧満州国の首都として建設された。当時一つの農村に過ぎなかった集落を、首都としての機能を備えた大都会にしたのだった。 当時ここに半年ばかり旧満州興業銀行の社宅跡に住んだことがある。ここで父の戦死の公報が入った。新京の近くの公主齢市での戦病死であった。継母は「父ちゃん死んだの」とぽつりと言った。その付近でひとり、父を思い合掌した、込みあげてくるものがあった。 当時私は、ここから無蓋車に乗せられ、コロ島まで走ったのだ。ようやく引き上げが決まり、引き揚げ者が歓喜の時であったと思われる。なかには、新京で貯めた財を積むものもいた。その荷物の間に、私の体がロープで固定されていた。9月とは言えとても寒かった。 長春~瀋陽北の列車の車窓は、相変わらずの景色で何の変哲のないものである。瀋陽は旧奉天と言った。私はここで生まれた。実母との別れの地でもある。母は28才の若さで結核で死亡した。死の床で私の顔をみて、にっこり笑った母の顔が浮かんだ。 奉天駅は今も存在していた、この付近で私は生まれたのだ。母はここの大和ホテルで結婚式を挙げたのだ。いまも実在している。 瀋陽~大連での車窓は変化が多かった。大連は、自然豊かな美しい町で、日本の風土に似ている。私の興味は旅順の水師営と203髙地である。これは引き上げには関係ないが、小学校の6年のときの担任であった、山本五郎先生の日露戦争の話がとても興味を持ったことがあり一度は行きたいところであった。 60年もの月日を迎え訪れた旧満州はいずれもビルに囲まれた大都市になっていて、幼少のころの記憶が薄れていく、この土地で実父母を失い。実父の後添えに迎えた継母シゲがこの戦乱のなかを本国へ連れ帰ってくれたことは今でも感謝している。その母も今はいない。引き上げ時ようやく本国が博多沖から見えたときの感動は幼いながらも覚えている。また、本国帰国を直前に、病死したひとの思い。現地で得た金が、本国では単なる紙切れであって、大量に投棄する人の無念さは、いかほどであったか。 あれほど逢いたかった、祖母もすでに他界していた。だが幸いだったのは実父の3人の伯母(姉妹)がいたことであった。その一番上の伯母に養子として引き取られた。18才まで国家は僅かな補償をしてくれた。ただし、弟には、終戦前に帰国していたので補償は無かった。これらの思いを持って「我が心の旅」は終わったがまだ心残りはある。 8月9日のソ連参戦を早々と知り、夕餉の食事もしないで一目散に逃げ去り、そして4才以下の子供に足手まといと言う理由で「殺せ!」と命令した関東軍の将校がいま目前に現れたら、地面に平伏させ、反省させたうえ、顔面を拳でぶん殴ってやりたい気分である。それをするには60年もの多くの月日が流れ、その者の記憶も薄れてしまっている。ここで述べた旧満州の旅はわたしの半生のけじめでもある。 #
by kurimotos
| 2008-05-03 09:32
|
|
ファン申請 |
||